『海洋プラスチック』。そう呼ばれるようになって久しい。その呼び名だけでそれが何を指すものか容易に想像できる。そして今ではその言葉も市民権を得たように、多くの人の知る所となった。
環境問題に関心の無い人は多い。それは当然だ、日常生活においてその問題を実感する事は無いし、目の当たりにしてもそれと気付く事すら無いだろう。この問題はそれくらい、じっくり、ゆっくりと世界を蝕んでいる。真綿で首を絞めるように。
海水浴場、表の顔と裏の顔
新潟市中央区西海岸にある日和山浜海水浴場。一年を通して釣り人が訪れる釣り場であり、夏は浜茶屋も出る海水浴場でもあるこの場所も、浜辺には沢山の漂着物がある。
今は三月、勿論海水浴客の姿は無い。野菜などを入れて運ぶコンテナだろうか、先日の嵐のせいか、波打ち際から随分離れた所に横たわっていた。天気の良い週末の朝ではあるが、冬の浜辺は人の姿も疎らだった。
海洋プラスチックを象徴するペットボトル。ペットボトルはポリエステルで出来ていて、そのポリエステルは石油から生成される。当然、自然には還らない。いや、5億年もすればひょっとしたら…でも、確かめる術は今のところ無い。
『そんなに気に食わないならお前が拾って片付けろよ』。そんな稚拙な言葉を掛けられた事も何度もあった。勿論、出来る事はやってきた。港町の出身でもあるので、小学生の頃から自治会で行われていた海岸清掃などもよく参加していた。清掃後は地引網なんかも行われた。
細かく砕けたプラスチック
プラスチック片と動物の足跡。細かく砕けたプラスチック片が、小さくなった流木片や枯れ葦と共に波に押されて溜まっている。広い海を彷徨う間に波に揉まれたり、流木や海岸、磯などにぶつかりながら少しずつ割れて欠片になっていく。
海で暮らす生き物の多くは捕食の際、獲物を丸呑みにする。その時、このような小さくなったプラスチック片も一緒に飲み込んでいると言われている。大半は排泄されるので魚の体内に残っている事は少ないそうだが、クジラなどの大型の海洋哺乳類は一度に飲み込む量も大きさも桁違いなので、大半が体内に残ってしまう。浜辺にうち上がったクジラの体内から数百キロものプラスチック製品やビニール袋が出てきた事例もあった。
最近の調査では、スーパーなどで市販されている『食塩』からも、微量のマイクロプラスチックが検出されたとの報道を耳にした。検査対象は国内の主要メーカー。メーカー名は非公開ではあったものの、全ての検体からマイクロプラスチックが検出されたそうだ。今のところ、健康被害は報告されていない。
砂に埋もれて見えなくなっていく
波が寄せては返す海岸線。砂を押しては引いて返していく。嵐が来れば激しくなり、穏やかな日でも止むことは無い。そんな自然のサイクルの中で、自然から生まれたものは自然に還っていく。そして海洋プラスチックもまた、そんなサイクルの中に居た。
漁業に使われていたロープだろうか、どれくらい深く埋まっているかは分からない。これを砂から引っ張り出すのは想像以上に大変だ。砂の重さも相まって、多少自信がある程度の腕力では引っ張り出せない。
近代漁具に多く使われているナイロン製ロープ。様々な規格があって、摩擦にも強く丈夫でしなやか。それでいて低コストで長期間使用できる最高の素材。そんなナイロンロープ、沢山の繊維の集合体のような構造をしているそうなのだが、コレが擦れたりして沢山の目に見えないマイクロプラスチックを発生させているとの話もある。目に見えないとはまたタチが悪いものだ。
一説には、2km程度の砂浜の海岸線には数十トンものプラスチックゴミが埋まっていると言われている。埋まって見えないからどれ程のものか確かめようがないが、凄まじい量が埋まっている事は間違い無いだろう。
ふと足元に目をやると、黄色いプラスチックの花が咲いていた。黄色い花は好きだ。きっとこの花は、枯れる事無くここでずっと咲き続けるのだろう。
捨て石にも溜まっていた
堤防を建設する際に、波の衝撃や砂の浸食を防ぐ為に大きな岩を根周りに沈める。こうする事で堤防を保護し、周辺に生息している魚の隠れ家にもなる。
堤防の付け根、海に浸からない部分に積み上げられた捨て石。その隙間にも無数の海洋プラスチックを見つけた。定番のペットボトルから発泡スチロール、板や瓶まで様々。捨て石は結構高く積まれているので、次第にこの隙間の奥底に深く潜っていく。こうなった物も、回収するなら容易な事ではない。
そんな物はただの漂着ゴミ、もはや見えてすらいない人々
海岸に遊びにきて『うわー、プラスチックゴミでいっぱいだー』とは、ならない。なっているのを見た事も無い。関心が無ければ当然だ。更に見慣れてしまえばそれは見えない物同然のようになっていく。あるのが当たり前だからわざわざ気にしない。
流木と海洋ゴミが入り混じった砂浜。100年前とかはどんな景色だったんだろうか。そこら中に転がっている海洋ゴミに、いちいち関心を示す人は誰もいない。
誰かの忘れ物のように佇むコンテナ。そばを通った人の足跡から、一瞥すらしないで歩き去った事が伝わってくる。置き去りにしたのはきっと、心なのかも知れない。
見つめる先にあるのは、もはや彼らの『故郷になってしまった海』なのだろうか。
現代の子供達の中に、『刺身は刺身のまま海を泳いでいる』と思っている子が居る。そんなに珍しい事ではないそうだ。もしこれと同じように大人たちがキチンと話をしていかなければいずれ、『プラスチックゴミは海から来る』と思うようになるだろう。
どのプラスチックゴミも、かつてはどこかで何かの役に立っていた物なのに。。。
かつて共に働いた『物』達へ
こう見えて俺達もかつては人間の役に立っていたんだぜ。俺は船が流されちまわないように岸壁からしっかりと掴んでいた!
自分は大きな網を従えて沢山の魚を捕ってきました。沢山捕れた時のオヤジさんの顔を思い出すと、今でも誇らしく思えますよ。
僕はブイを浮かせて、網君の位置を教えて航路を指示していたよ。凄く地味だけど、船の安全を守るガードマンだったんだ。
あんたには俺達をどうする事もできないだろう。だからせめて忘れないでいてくれ、俺達は『共に仕事をした仲』だった事を。
どれ程長い間海を彷徨っていたでしょう。最後に人の傍に居た時の事を思い出せません。私がどんな形をしていたのかも、今となっては私自身も分かりません。それでも、暗い海から見上げる星空はとてもキレイでした。そんな長い旅も、孤独ではありませんでした。旅の途中で出会ったこの子達が居たから。そしてこの子達の子供達もまた、どこかで誰かの旅のお供をしている事でしょう。
終の場所がここで良かった。私はこの子達と共に、静かに砂に埋もれていきますから。
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